いじめを否定してはいけない
いじめが原因で起きる凄惨な事件は後を絶ちません。
いじめの範囲を幅広く捉えれば、小中学校におけるいじめだけでなく、会社を含む諸コミュニティにおけるハラスメントまで含みます。
生きていく上では、いじめに遭遇する可能性は大なり小なりあるといえます。
世間一般ではいじめは諸悪の根源、すべからず根絶されるべきである行為だといわれます。
私はそうは思いません。
人がいじめをすることを否定してはならない。
このようにいうと、ネットでしばしば見られる「いじめは加害者が悪いが、被害者にも非がある」という被害者叩きは正当だという意見だと勘違いされそうですが、全くそうではありません。
そもそも私はいじめにおいては、どのアクターも悪役ではないし、責任を追求されるべきではないと考えてます。
もちろん、いじめが発展して取り返しのつかない状態(それが被害者の死であったり、被害者の著しい損害など)になってしまえば、責任を負うのは加害者並びに監督者と言わざるを得ない。
あくまで、いじめの初期状態においての話になります。
そもそも、いじめとは人間が社会生活を営むために必要なメカニズムです。
人は個人では生きてはいけません。集団となってリソースを出し合い、利益を分配し繁栄してきました。
危惧しなければならないのは集団の中に働かないけど利益のみを享受する「フリーライダー」という存在です。
「フリーライダー」を放置していると、次第にその周りでも、非協力的な人間が増えてきます。その結果、集団は内部から崩壊してしまう。
そのため、集団を維持する為に「フリーライダー」に制裁を加えなければなりません。
もちろんそれが本当にズルしている人間であれば正当であるといえます。しかし現実は往々にして、不当な制裁であることが大半です。
スタンダードと離れた言動をしてしまったり、外見が少し違ったり...
些細な違いで制裁しなければならないという意識が集団に発生します。
その結果発生するのがいじめです。
なので、いじめはやめよう、と言うのは簡単ですが、仲間外れを制裁しなければならないという脳の働きが存する限り
いじめをやめようという安い言葉では根本的な解決には至らないといえます。
大切なのは、それがエスカレートしないように集団が集団を制御することだと思います。
いじめは発生しうると共通認識を持ったうえで、個人が心のもやもやを感じたときに全員に共有し、原因を分析する。
些細なことが原因になりうるのですから、その解消は容易である可能性が高いです。
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こちらの書籍にて、脳科学者の中野信子さんは次のようなことを書いてます
学校に、いじめを報告する努力が報われる環境がないことが問題なのです。
学校のいじめについての話ですが、その他の環境においても同様でしょう。
ハラスメントを指摘することは簡単だけど、指摘するとギスギスした雰囲気になってしまう。だから、我慢しよう。
人間は完ぺきではない。だから、いじめは発生してはならないと目を背けるのではなく、
少しでも不快に思う言動があったらお互いに指摘しあって、環境を改善していこう。
そのような集団を作れるとよいですね。